コンバインの前方で、稲が倒れていった。風ではない。黄金色の穂が、田の奥からこちらへ向かって順々に深く伏してくる。その下に白いものが見えた。作業着の袖だった。誰かが腰を折り、稲穂より低いところを歩いている。運転席の青年・直樹が機械を止めると、それも止まった。稲の隙間から、泥のついた細い指だけが地面を探るように動いていた。
直樹は九月から、山に囲まれた架空の小さな集落で農作業を手伝っていた。親戚の紹介で収穫期だけ働くことになり、朝は乾いた稲の匂いの中で機械を点検し、昼には共同小屋で農家の人たちと弁当を食べる。田には赤とんぼが飛び、遠くでは草刈り機が唸っていた。世話役の坂井は冗談好きで、見慣れない直樹にもよく冷えた麦茶を渡してくれた。怪談とは縁のない、明るい仕事場だった。
さっき見えた袖のことを告げると、坂井は田へ入り、稲を両手で分けて確かめた。人はいなかった。泥にも長靴の跡らしいものはない。「サギでも潜ったか」と笑われ、直樹もそう考えることにした。ただ、倒れた稲を起こそうとして奇妙な感触に気づいた。茎の表面が冷たい。しかも一帯には、雨上がりの土とは違う、長く水に浸した藁のような甘く重い匂いがこびりついていた。
午後、刈り終えた田から機械を出すと、隣で束を運んでいた坂井が突然しゃがみ込んだ。「背中、押された」と言って腰をさする。その作業着には、肩から腰へ五本の泥筋が走っていた。直樹が触れる前に、小屋のそばにいた老女がそれを見て顔色を変えた。彼女は泥を払おうともせず、「穂伏せに背中を見られた」と低く言った。そしてまだ刈っていない田を見た。稲穂の下で、白い袖が今度は横向きに滑っていた。
直樹は坂井を軽トラックへ乗せ、集落の診療所へ連れていこうとした。ところが坂井は座席で次第に前屈みになり、膝へ額がつくほど身体を折った。「上からじゃない。下から引かれる」と息を詰める。直樹は車を降り、近くの農家へ助けを求めた。戻る途中、刈り株の間から衣擦れの音が追ってきた。振り返ると何もいない。しかし直樹の腰にも、濡れた手のひらを当てられたような冷たさが残った。
共同小屋へ坂井を運び込んだ瞬間、入口に積まれた稲藁が内側へ崩れた。その向こうから女が四つ這いではなく、両足を立てたまま腰だけを異様に深く折って入ってきた。白い野良着の背中には稲穂が絡み、顔は逆さに垂れた髪で隠れている。女が腕を伸ばすと、坂井だけでなく直樹たちの背中まで一斉に軋んだ。老女が箕いっぱいの籾殻を戸口へ投げると、女はそれへ顔を伏せ、風もないのに稲の匂いだけが小屋の外へ流れた。
女の姿は、舞い上がった籾殻が落ちるころには消えていた。坂井はようやく身体を起こせたが、翌日まで腰に泥の手形が残った。老女は穂伏せについて詳しく語ろうとせず、「昔から田を刈るころ、立っている人間を嫌うものがある」とだけ言った。直樹たちはその日の作業を中止した。夕方、無人になった田を見ると、一部の稲だけが地面すれすれまで伏していた。その間には、人が這った跡ではなく、細い髪のような枯れ草が続いていた。
収穫が終わり、直樹は町へ戻った。それから数日後、作業着を洗おうとしてポケットから一本の稲穂を見つけた。持ち帰った覚えはない。捨てようと摘まんだ瞬間、廊下を歩いていた同居の兄が「何だ、急に腰が重い」と壁へ手をついた。直樹は稲穂を紙に包み、屋外の物置へ移した。翌朝、その紙だけが平らに潰れていた。物置の低い棚の下には、白い袖口ほどの布が、こちら側へゆっくり引き出されたように覗いていた。
※本作は創作怪談です。
