袋から出したばかりの白衣が、作業台の端で肘を曲げた。そう見えただけだと思い、私は布を両手で伸ばした。ところが離した途端、右袖だけがゆっくり持ち上がり、胸元を押さえるような形で止まった。窓は閉まっている。空調の風も届かない。透明なクリーニング袋だけが、足元でかさりと鳴った。
私は調理系の専門学校で実習助手をしている。授業後の実習室で器具を洗い、翌日の材料や制服を準備するのが仕事だ。その水曜も夕方まで学生の声が残り、ステンレスの台には白い蛍光灯が映っていた。回収していた実習用白衣がクリーニングから戻ったので、私は隣の準備室でハンガーへ掛け直していた。
さっきの白衣をラックへ移すと、右袖の先から微かに香辛料の匂いがした。洗剤の香りに混じる、焦がした胡椒のような刺激だった。ポケットに何か残っているのかと手を入れたが空だった。布地にも汚れはない。実習室では午後に胡椒を使っていたから、その匂いが自分の手に残っているのだろう。私はそう考えて作業を続けた。
洗い物を片づけていると、準備室から金属同士を擦る乾いた音がした。戻ると例の白衣がラックから外れ、調理台の前の丸椅子に掛かっている。袖口には銀色のトングが挟まれていた。誰かが戻ってきたのかと実習室を見回したが無人だった。その瞬間、白衣の肩の辺りが内側から膨らみ、布越しに何かが深く息を吸った。
私は白衣に触れず、教員室にいた講師を呼んだ。事情を伏せて「これ、さっき動かしませんでしたか」と尋ねると、講師は首を振った。それから白衣を見るなり眉を寄せた。「誰か入ってるみたいだな」。同じ見え方をしたことに背中が冷えた。講師がトングを抜こうとすると、空のはずの袖が素早く引かれ、その手を避けた。
次の瞬間、白衣は椅子から立ち上がった。頭も脚もない。ただ胸と腕に人の厚みだけが生まれ、裾を床すれすれに浮かせたまま調理台へ向いた。右袖がトングを握り、何も載っていない鉄板を激しく掻く。焦げた胡椒の匂いが喉に刺さった。私が電源盤へ走ると、左袖が伸びて手首を掴んだ。濡れた布の冷たさではなく、人の指そのものの圧だった。
講師がハンガーラックごと白衣を押さえ込み、私は手を振りほどいて実習室の扉を開けた。すると白衣の膨らみは急に潰れ、床へ落ちた。トングも転がった。翌日、校内で保管せず業者へ事情をぼかして再洗浄を頼み、念のためその白衣は使用から外した。手首には痣も傷もなかったが、実習室にはしばらく胡椒を焦がした匂いだけが残った。
それから数週間後、新しい白衣で授業準備をしていた学生が「先生、これ持っててください」と私にトングを差し出した。受け取ろうとしたとき、その学生は妙な顔で自分の右腕を見た。「今、勝手に手が動いた気がして」。彼女の白衣は新品だった。それでも袖口へ顔を近づけると、洗剤ではなく焦げた胡椒の匂いがした。私はその場で、彼女に白衣を脱ぐよう頼んだ。
※本作は創作怪談です。
