瓶を一本も出していない集積所で、ガラス同士が触れる音がしました。続いて青い回収網の下から、女の声で「あと一軒」と聞こえたのです。九月最初の火曜日、午前五時十二分。私は当番札を首に下げたまま、誰かが網の内側に隠れているのかと思い、固い結び目へ手を伸ばしました。すると空のはずの網が、冷たい潮の匂いを吐きながら内側から一度だけ持ち上がりました。
私の住む三階建てのアパートでは、毎週火曜日が空き瓶の回収日です。各階の住人が前夜から瓶を出し、当番が夜明け前に色別の箱へ分けます。集積所は駐車場の隅にあり、朝になれば通勤の車や子どもの自転車が行き交う、ごく普通の場所でした。その日は月初めで当番が私に替わったばかりです。まだ薄暗い空の下、遠くの新聞配達の音を聞きながら、私は網をめくりました。
中には、曇った青い小瓶が一本だけ横たわっていました。前夜に確認したときには何もなかったはずですが、遅く帰った住人が置いたのだろうと考えました。ところが瓶は雨も降っていないのに濡れ、持ち上げると底から水滴が靴へ落ちました。口には栓も蓋もなく、中も空です。さっきの声は近くの部屋のテレビだと思い直し、私は青色の箱へ入れ、ほかの瓶が集まるのを待つことにしました。
六時近くになると箱は半分ほど埋まりました。茶色や透明の瓶を仕分けている間にも、青い箱から時折、ちん、と小さな音が鳴ります。風で揺れているのだろうと箱を壁際へ寄せましたが、音は一定の間隔で続きました。ちん、ちん、と一度ずつ。そのたびアパートの廊下の照明が、三階から二階、一階へ順番に消えていきます。そして最後の明かりが消えた瞬間、箱の底で「あと一軒」と声が重なりました。
私は回収業者が来る前に確かめようと、青い箱の瓶を一本ずつ別の箱へ移しました。声のした小瓶は底にありませんでした。代わりに、網とコンクリートの隙間へ立ったまま挟まっていたのです。ラベルには印刷ではなく、濡れた指でなぞったような字で、私の名字と「二〇三」と書かれていました。悪質ないたずらなら証拠を残そうと思い、スマートフォンを向けました。しかし画面には小瓶だけが映らず、網の下に黒い穴が開いていました。
穴をのぞいた途端、周囲の車の音も鳥の声も途切れました。青い網の下には集積所ではなく、アパートの各部屋が小さな瓶のように並んでいました。暗い部屋から順に住人の名字が呼ばれ、そのたび一室ずつ潰れて、ガラスの割れる音に変わります。最後に残った二〇三号室では、私と同じ服を着た男が流し台で青い小瓶を洗っていました。男は顔を上げ、こちらを見ずに「これで全部」と言いました。その瞬間、手の中の瓶が私の脈と同じ速さで震え始めました。
私は瓶を放り出し、網を踏み越えて部屋へ駆け戻りました。玄関には鍵が掛かっていましたが、台所の蛇口から細い水が流れ、流し台の中央にあの小瓶が立っていました。濡れたラベルから名字だけが消え、「二〇三」の数字が残っています。厚手のタオルで包んで戸棚の奥へ押し込み、出勤前に管理人へ集積所のことを話しました。管理人が見に行ったとき、瓶はすべて回収済みで、青い箱だけが逆さに伏せてあったそうです。
翌週の火曜日、私は当番を代わってもらい、夜明けまで部屋の灯りをつけていました。午前五時十二分、廊下へ紙を滑らせる乾いた音がしました。扉を開けると、町内の回収案内に似た白い札が一枚置かれています。表には日付と「回収済」の印。裏返すと、部屋番号の一覧があり、二〇三だけが赤丸で囲まれていました。その下の品目欄には「青い瓶」ではなく、私のフルネームと、その横に「未回収 一名」と書かれていました。
※本作は創作怪談です。
