エンジンをかける前、誰も乗っていない車内で降車ボタンが鳴りました。赤いランプが一つだけ灯り、運転席の表示には、行き先の代わりに「帰り」と出ていました。整備用の鍵で電源を落としても文字は消えません。九月最初の火曜日、朝六時四十分。車庫のシャッターは半分開き、外では草刈り機の音がしていました。それなのに、バスの中だけが夜のように静かでした。
私は週に三日、山あいの集落を回る小型の巡回バスを運転しています。火曜日は診療所と商店を結ぶ便で、顔なじみの利用者がほとんどです。野菜籠を抱えた人を待ち、足の悪い人には踏み台を出す、急ぐ必要のない路線でした。その朝も表示を通常の「中央広場」に戻すと、七時十分に出発しました。薄い雲の向こうから日が差し、濡れた田の上を白い霧がほどけていました。
三つ目の停留所で二人を乗せ、次の集落で一人を降ろしました。その直後、後方からピンポン、とボタンが鳴ったのです。乗客は前の席に三人だけで、誰も手を伸ばしていません。段差の振動で接点が入ったのだろうと思い、予定どおり道端にバスを寄せました。扉を開けても外には誰もおらず、乗降口の床に泥水の小さな跡が一つ、靴底の先だけを押したように残っていました。
坂を上り始めると、五分おきに同じボタンが鳴りました。点灯するのは毎回、最後列右側の窓際です。そこだけ窓が白く曇り、近づくと雨上がりの土と古い畳を混ぜたような匂いがしました。停留所ではない杉林の手前でまた音がしたとき、乗客の一人が振り返り、「坂下で降りたい人がいるんじゃない」と言いました。坂下という停留所は、少なくとも現在の路線図にはありません。
私は安全な待避所に停車し、乗客に断って車内を確かめました。座席の下にも荷物棚にも人はいません。しかし最後列の座面には、誰かが腰掛けた形で浅いくぼみが残り、触れると氷のように冷えていました。運行端末の乗客数は六人。前から数えると五人です。入力を直しても、数字はすぐ六に戻りました。気味が悪くなった私は、終点まで途中の乗降をすべて記録することにしました。
終点の中央広場に着き、五人全員が降りたあとも、端末には「車内一名」と表示されていました。扉を閉めようとすると降車ボタンが鳴り、車内放送が私の声で「次は坂下、坂下です」と告げました。そんな音声を録音した覚えはありません。最後列のくぼみがゆっくり戻ると、通路の座席が後ろから順に沈み、見えない誰かが一歩ずつ出口へ近づいてきました。運賃箱には、濡れた硬貨が一枚だけ落ちました。
私は扉を開けたまま外へ飛び出し、広場の管理人を呼びました。二人で戻ると座席は元どおりで、端末も乗客数ゼロを示していました。ただ、出口から広場の端へ向かって、片足分だけの泥の跡が続いていました。跡は古い坂道の入口で途切れ、その脇には、現在使っているものと同じ停留所標識の丸い影が土に残っていました。濡れた硬貨は運賃箱から消え、代わりに細長い乗車券が一枚出てきました。
営業所には故障として報告し、その週のうちにボタンと端末を交換してもらいました。翌火曜日、始業前に新しい端末から運行表を印刷すると、見慣れない停留所が一つ増えていました。「坂下、七時五十八分、乗車一名」。同僚に見せるため紙を机へ置き、振り返ると、車庫のバスで降車ランプが灯りました。印刷された人数は赤字で訂正されていました。乗車一名ではなく、降車一名。その下に小さく「運転手は乗車のまま」とありました。
※本作は創作怪談です。
