傘立ての奥から、ぽた、ぽた、と水音がしていた。月曜の朝から空は晴れていて、傘を持ってきた社員はいない。それなのに一本の透明傘だけ、開いてもいないのに床へ水を落としている。事務用品会社で働く美紀が持ち上げると、ビニールの外側は乾いていた。濡れているのは、畳まれた傘の内側だった。握った途端、耳のすぐそばで誰かが息を吐いた。
美紀の職場は、小さな営業所の二階にある。朝は配送担当が出入りし、昼を過ぎれば電話とプリンターの音ばかりになる、ごく普通の事務所だった。入口の傘立てには急な雨に備えた透明な置き傘が数本あり、誰でも使っていいことになっている。昼休み、美紀は問題の傘を給湯室へ運び、流し台の横で広げて乾かすことにした。窓から明るい日差しが入っていた。
傘を開いた瞬間、冷たいものが美紀の頬を撫でた。水滴だと思って手で払ったが、指先には細く長い黒い髪が一本絡んでいた。社員の誰かの髪が偶然挟まっていたのだろう。そう考えて捨てようとしたとき、広げた傘の内側から、また一滴落ちた。天井も床も乾いている。しかも雫は傘の中心ではなく、美紀の頭が入るあたりから垂れていた。
同僚の佐伯を呼ぶと、彼は笑いながら傘を覗き込んだ。しかし、すぐに黙った。「誰か入ってる?」と言って、傘の下から一歩退く。もちろん何もいない。ただ、透明なビニール越しの景色だけが、人ひとり分の幅で妙に歪んでいた。美紀が柄を離しても傘は倒れず、床に先端をつけたまま数秒立っていた。その下からは、雨上がりのような湿った土の匂いがした。
美紀は傘を閉じ、厚手のごみ袋へ入れて資材置場へ移した。午後、外回りから戻ると、佐伯が入口で待っていた。「さっきから背中、濡れてない?」。触れるとブラウスの肩から腰まで、一本の筋だけが冷たく湿っていた。資材置場を確認すると袋は破れていない。だが中の透明傘は勝手に半開きになり、ビニールの内面へ髪の毛のような黒い束がべったり貼りついていた。
二人で袋ごと外へ出そうとしたとき、傘が内側から強く押され、突然いっぱいに開いた。柄を握っていた美紀の腕が引き寄せられ、頭が傘の下へ入る。途端に土砂降りの音がした。実際には一滴も降っていない。透明な膜のすぐ内側に、濡れた女の横顔が押しつけられていた。顔は美紀と同じ側、つまり傘の下にいる。長い髪が首へ触れ、冷たい指が彼女の手の上から柄を握った。
佐伯が柄を蹴り飛ばすと、傘は床を滑って壁にぶつかり、音も顔も消えた。二人はそれ以上触らず、営業所の管理担当に頼んで傘を資材ごと別の保管場所へ移してもらった。理由は「破損と水漏れ」とだけ伝えた。それから数日、美紀の服が濡れることはなくなった。給湯室にも湿った匂いは残っていない。ただ、美紀は透明傘の下へ入れなくなり、雨の日は布張りの傘を使うようになった。
翌週の月曜、出勤途中で急な雨が降った。美紀が自分の紺色の傘を開くと、駅へ向かう人々が次々と透明傘を差して通り過ぎた。その中の一人が、美紀を見て急に足を止めた。知らない女性だった。彼女は自分の傘の内側を見上げ、それから美紀へ視線を戻して、小さく場所を譲るように横へずれた。透明な傘の下にはまだ誰も見えないのに、濡れた長い髪だけが、その女性の肩へ静かに垂れ始めていた。
※本作は創作怪談です。
