それは、はっきりとした問題ではなかった。
むしろ逆だった。
一見すると、何の問題もないように見えていた。
茂原七夕祭り。
人は集まり、出店が並び、例年通りのにぎわいがある。
外から見れば、「ちゃんと成立している祭り」だった。
だからこそ、その違和感は説明しづらかった。
——何かがおかしい。
そう思いながらも、どこがどうおかしいのか、すぐには言語化できない。
関わる時間が増えるほど、少しずつ見えてくるものがあった。
毎年、同じ人が同じ役割を担い続けていること。
準備や運営の負担が、特定の人に偏っていること。
そして、「なぜやるのか」が、ほとんど語られていないこと。
それらは一つひとつは小さな違和感だった。
だが、重なり合うことで、無視できないものに変わっていく。
“なんとなく続いている”
その言葉で説明できてしまう状態。
それは安定でもあるが、同時に停滞でもある。
このままで、本当に続いていくのだろうか。
ふと考える。
もし、この構造のまま数年後を迎えたとしたら。
今支えている人たちが、同じように関わり続けられる保証はない。
負担が偏ったままの状態は、いずれどこかで歪みを生む。
実際、日本全国で祭りは減り続けている。
理由は単純だ。
——続けられなくなるから
やりたい人がいないわけではない。
地域への思いがないわけでもない。
ただ、「続けられる構造になっていない」だけだ。
その瞬間、見方が変わった。
これはイベントの問題ではない。
構造の問題だ。
そして構造は、意図して設計しない限り変わらない。
つまり、このままでは変わらない。
正直に言えば、やらない選択肢もあった。
既存のやり方に乗っていれば、波風は立たない。
大きな対立も起きないし、無難に終わる。
評価を落とすこともない。
だが、それを選んだ瞬間、
この違和感を見て見ぬふりをすることになる。
それは違うと思った。
この祭りを続けるために必要なのは、
“同じことを続けること”ではない。
“続けられる形に変えること”だ。
そのためには、問いを立てる必要がある。
なぜやるのか。
誰のためにやるのか。
どうすれば続いていくのか。
そしてもう一つ。
——何を変えるのか
ここを曖昧にしたままでは、何も変わらない。
当然、簡単な話ではない。
やり方を変えるということは、これまでの前提を崩すことになる。
少なからず摩擦は生まれる。
違和感を言語化すればするほど、衝突も起きる。
それでも、やる理由は明確だった。
このままでは、いずれ終わる。
だったら、今変えるしかない。
——変えるなら、今しかない
この時点では、具体的な施策はまだなかった。
ただ一つだけ、決めていたことがある。
「今までと同じことはやらない」
それだけは、はっきりしていた。
ここから先は、正解のない選択の連続になる。
この祭りを、ただ“続ける”のか。
それとも、“意味を持って続くもの”に変えるのか。
その分岐点に立ったとき、
もう後戻りはできなかった。
すべては、ここから始まる。

