「同じ橋を一日に三度渡るな。」
祖父は酒を飲むたび、その話をした。
理由を尋ねても、 「帰ってこられなくなるからだ」 としか言わない。
子どもの頃は怖かったが、大人になるにつれ、そんな言い伝えも笑い話になっていた。
盆休みに久しぶりに故郷へ戻った私は、祖父が亡くなったことを知る。
葬儀を終え、翌日には町へ帰る予定だった。
村外れには一本の古い石橋がある。
川幅は狭く、今では新しい道路もできているため、利用する人はほとんどいない。
朝、散歩がてら橋を渡り、向こう岸の墓へ祖父に手を合わせた。
これが一度目だった。
昼頃、親戚から忘れ物を頼まれ、近道だからとまた橋を渡る。
二度目。
そのとき、橋の中央で誰かが私の名を呼んだ気がした。
振り返っても誰もいない。
風もないのに、川面だけが細かく揺れていた。
「気のせいだ。」
そう自分に言い聞かせた。
夕方。
町へ戻るため荷物を車へ積み込んでいると、財布が見当たらない。
思い返すと、墓前で線香をあげたときに落とした気がした。
急いで橋へ向かう。
橋の手前で、近所のおばあさんとすれ違った。
「あんた、今日は何回橋を渡った?」
突然そう聞かれた。
「二回です。」
答えた瞬間、おばあさんの表情が曇る。
「なら今日はやめな。」
意味が分からず笑うと、おばあさんはそれ以上何も言わなかった。
財布くらい、すぐ取って帰ればいい。
そう思って橋を渡った。
三度目だった。
橋の中央に差しかかったとき、水音が止んだ。
いや。
止んだのではない。
周囲の音がすべて消えた。
風も虫も鳥も。
世界が静まり返っている。
その静寂の中で、後ろから祖父の声が聞こえた。
「振り向くな。」
胸が締めつけられる。
祖父はもう、この世にいない。
それでも声は、子どもの頃と同じ優しさだった。
私は前だけを見て歩いた。
あと数歩で橋を渡り切る。
そのときだった。
今度は母の声がした。
「財布、ここにあるよ。」
続いて友人、先生、小学生の頃の同級生。
懐かしい声が次々に聞こえる。
最後に、小さな女の子の声。
「どうして帰るの?」
思わず足が止まった。
橋の欄干に、小さな手が並んでいた。
何本も。
水の中から。
必死に橋へしがみつく白い手。
そのどれもが、私を招くように揺れている。
祖父の声がもう一度響いた。
「歩け。」
私は目を閉じ、一気に駆け抜けた。
橋を渡り切ると、風が吹き、虫の声が戻る。
財布は墓石の前に落ちていた。
帰宅後、祖父の遺品を整理していると、一冊の古い帳面が見つかった。
村の言い伝えを書き留めたものらしい。
その最後のページには、こう記されていた。
橋は人を渡すためにある。 だが年に何度か、 向こうがこちらへ渡ってくる日がある。 三度目は、人ではなくなる。
私は二度と、その橋へ近づいていない。
けれど盆になると毎年、知らない番号から一本だけ留守番電話が入る。
雑音の奥で、祖父の声が聞こえる。
「今年も、渡るな。」
※本作は創作です。
