あれは、茂原駅で終電を逃した夜の話だ。
改札のシャッターが半分ほど下りかけていて、駅全体がどこか「終わった場所」のような空気をまとっていた。人の気配はなく、構内に残っているのは蛍光灯の白い光と、遠くで鳴る機械音だけ。仕方なくホームのベンチに腰を下ろし、スマホを眺めながら時間を潰していた。
そのときだった。
「コト…」
と、隣に誰かが座ったような感覚があった。
反射的に顔を上げる。だが、そこには誰もいない。見間違いかと思い、もう一度スマホに視線を落とす。だが、妙な違和感が残る。まるで、すぐ隣に「いる」のに見えていないだけのような。
数秒後、今度ははっきりとした気配があった。息遣いのような、湿った空気の動き。ゆっくりと横を見る。やはり誰もいない。
だが、確実に“何か”がこちらを見ていた。
急に居心地が悪くなり、立ち上がった。その瞬間、背後で「コツ…」と足音が鳴る。一歩遅れて、こちらの動きに合わせるように。
振り返る。誰もいない。
歩き出す。
「コツ…コツ…」
足音だけが、一定の距離を保ってついてくる。
駅の出口に近づくにつれて、その音はわずかに近づいてきた。逃げるように改札を抜ける。外に出た瞬間、足音は止んだ。
振り返ると、ガラス越しのホームに——
誰もいないはずのベンチに、ひとつ分の“沈み”だけが残っていた。
あの夜以降、終電後の茂原駅には、できるだけ近づかないようにしている。
