展示用の人形に藍染めの祭衣を着せた瞬間、右の袖だけが肩の高さまで持ち上がった。中には人形の腕が入っていない。布を整えていた私の手を真似るように、空の袖口がゆっくり内側へ折れた。窓は閉まり、空調も止めてある。隣で作業していた女性職員が「それ、腕を入れた?」と聞いた。私が首を振ると、袖は力を失ったように垂れた。
私は山あいの小さな地区にある公民館で、秋の郷土資料展を担当していた。祭衣は、かつて集落の収穫祭で使われたという木綿の上着で、濃い藍地に白い山形の刺し子がある。寄贈した老人は受付で、「これは着る衣じゃない。山から来る客へ、ひと晩だけ貸す衣だ」と話した。昔話めいた注意だと思い、私は由来札を書くため、その言葉だけ手帳に控えていた。
翌日の午後、展示ケースへ移そうと祭衣を外すと、襟の内側が妙に温かかった。日なたに置いたわけでもない。さらに袖口から、乾いた杉の葉を揉んだような匂いがした。倉庫に防虫材でも残っていたのだろう、と同僚と笑ったが、持ち上げると布の内側から誰かが息を吐くような柔らかな膨らみが伝わった。私は反射的に手を離し、衣は床へ人の形のまま崩れた。
その日の夕方、児童向け展示の準備に来た親子が、ケース越しに祭衣を眺めていた。女の子が母親の袖を引くと、ケースの中でも藍の袖が同じ角度で曲がった。母親が髪を耳にかければ、もう一方の袖口が襟元へ上がる。私はすぐ親子を離し、布を風呂敷で包んだ。すると包みの中から、今度は私が鍵を回す手つきをなぞるような動きが続いた。
展示を取りやめようと寄贈者へ連絡すると、老人はしばらく黙り、「人の形にしたのか」とだけ尋ねた。人形に着せたと答えると、電話の向こうで椅子が倒れる音がした。「昔は柱から掛けた。中身を想像させちゃいけなかった」と老人は言った。私は祭衣を人形から完全に外し、体育館脇の和室に広げて戸を閉めた。持ち帰るのもためらわれ、老人が来るまで待つことにした。
閉館間際、和室から畳を擦る音がした。戸を開けると、床に置いた祭衣が膨らみ、見えない誰かが内側から立ち上がろうとしていた。襟の奥には身体がない。ただ向こう側の畳が見える。それでも両袖は私の肩幅に合わせて開き、次の瞬間、冷たい袖口が左右から私の手首を包んだ。振りほどくと衣は床を滑り、逃げた私と同じ歩幅で、廊下の角までついてきた。
駆けつけた老人は祭衣を見るなり、人形ではなく古い木製の衣桁を用意させた。布をそこへ掛けると、膨らんでいた肩がゆっくり沈み、杉葉の匂いも薄れた。老人は説明をせず、白い布で衣桁ごと覆った。その夜の展示は中止し、祭衣は翌朝、寄贈者へ返した。私は手首に残った冷たさを湯で温めながら、あれが私の動きを覚えきる前に離れたのだと思うことにした。
数日後、片づけた展示室で別の職員が脚立を運んでいた。壁際の空の人形が邪魔だというので見ると、腕のない展示用トルソーだった。ところが、その肩から垂れた白い保護布だけが、私の前で鍵を回すように端を丸めた。職員は気づかず先へ行く。私は布に触れなかった。その下には何も着せていないはずなのに、すれ違った瞬間、杉の葉を揉んだ匂いがした。
※本作は創作怪談です。
