最初に見えたのは、人ではなく足だった。雨の夜、集合住宅の階段をモップで拭いていた真壁が顔を上げると、上の踊り場を裸足の左足が横切った。白くふやけた踵と、濡れて床に張りつく指先だけが見えた。住人だと思い、「滑りますよ」と声をかける。返事はない。代わりに、ぺたり、と一段下へ降りる音がした。続けてもう一度。だが手すり越しに見える階段には、誰もいなかった。
真壁は、町外れにある架空の三階建て集合住宅で管理員をしている。夕方に共用灯を点検し、郵便受けの周囲を掃き、雨の日には外階段から吹き込んだ水を拭く。築年数は経っているが、子どもの声や夕食の匂いが漂う、ごく普通の住まいだった。その晩も二階ではテレビが鳴り、一階の玄関には濡れた傘が並んでいた。真壁は足音を住人のものと考え、モップを絞り直して作業へ戻った。
ところが階段には妙な水跡があった。靴底ではなく、素足で踏んだような細長い染みが、途中の一段にだけ残っている。雨水が跳ねたのだろうと屈んだ瞬間、耳のすぐ上で「まだ拭くの」と女とも子どもともつかない声がした。真壁は勢いよく振り返ったが、階段は空だった。二階の住人に尋ねても、今しがた通った者はいないという。気味は悪かったが、雨音が言葉に聞こえただけだと自分に言い聞かせた。
翌日はよく晴れた。昼過ぎ、真壁が一階の植え込みを整えていると、二階から降りてきた住人が階段の途中で急に立ち止まった。「誰か、下にいます?」。真壁が見上げると、住人の視線は彼ではなく、そのすぐ後ろを追っていた。次の瞬間、乾いた階段から、ぺたり、ぺたり、と裸足の音が降り始める。音だけが踊り場を曲がり、真壁のいる一階へ近づく。足元には、晴天なのに冷たい水が一筋だけ流れてきた。
真壁は管理室へ入り、扉を閉めた。住人も一緒に避難させ、しばらく外から階段を見ることにした。すると足音は階段を降り切らず、途中で止まった。それなら建物の中だけの現象かもしれない。そう考えた真壁は、その日は清掃を中止して帰宅した。ところが自宅の玄関で靴を脱いだ途端、靴下の裏が冷たく濡れた。床は乾いている。その夜、台所へ向かう廊下の向こうから、あの裸足の音が二歩だけ聞こえた。
真壁は翌朝、知人宅へ泊まる支度をした。建物ではなく自分についてきた可能性を考えたからだ。玄関を開けたとき、廊下の突き当たりに両足が見えた。膝から上は壁に隠れているはずなのに、その位置には人が立てる空間がない。白く濡れた足は、踵を浮かせたままこちらを向いた。真壁が外へ飛び出すと、背後から激しい足音が迫った。走る音ではない。一段ずつ階段を下りるあの遅い音が、平らな廊下を追ってきた。
真壁はそのまま集合住宅へ戻った。自分から離れないのなら、住人のいる場所へ持ち込むべきではないと思ったのだ。管理室で待っていた同僚に事情を話し、しばらく現場を外してもらった。奇妙なことに、それから足音は聞こえなくなった。自宅の床も濡れず、数日後には普通に眠れるようになった。同僚からも異常はないと連絡が来た。ただ一つ、清掃用のモップだけは捨てた。最初の晩から、何度乾かしても柄の握り部分まで冷たかったからだ。
半月後、真壁は昼間だけ勤務へ戻った。新人の管理員と階段清掃をしていると、三階の踊り場から小学生が駆け下りてきた。真壁の脇を通り過ぎた子は、玄関まで行ってから振り返り、不思議そうに言った。「おじさん、後ろの人は掃除しないの?」。新人が笑って誰もいないと言う横で、真壁は動けなかった。肩のすぐ後ろで、濡れた素足が床から離れる、ぺた、と小さな音がしたからだ。今度の足音は、階段を下りてはいなかった。
※本作は創作怪談です。
