月曜の昼、パソコンに向かっていると、ベランダの洗濯物の向こうを人が横切った。白いシャツの隙間から、薄茶色のカーディガンと裸足の足首が見えた。ここは集合住宅の五階で、ベランダは隣室との間を隔て板で区切られている。誰かが外から入ってこられる場所ではない。私は椅子を蹴るように立ち、カーテンを開けた。そこには干したシャツと植木鉢があるだけで、人の姿はなかった。
私は週の初めだけ自宅で仕事をしている。昼休みになると窓を開け、洗濯物を取り込みながらコーヒーを淹れるのがいつもの習慣だった。建物は古いが、ごく普通の賃貸住宅だ。隣には親子が住んでいて、朝には小学生くらいの男の子が母親に見送られる声がする。反対側は空室らしく静かだった。その日も外は明るく、向かいの屋根から照り返す九月の光で、ベランダの床まで白っぽく乾いていた。
気になって外へ出ると、隔て板にも手すりにも変わったところはない。ただ、隣との境目に立った瞬間、すぐ耳元で「通ります」と女の声がした。驚いて振り返ったが、室内にもベランダにも誰もいない。隣人が板越しに話したのだと思い、「どうぞ」と反射的に答えてしまった。返事はなかった。その直後、干していたシャツの列が、端からではなく私の正面だけ、人の肩が通り抜けたように左右へ分かれた。
私は窓を閉めて仕事へ戻った。ところが午後、オンライン会議の最中に同僚が「後ろ、誰かいる?」と尋ねた。画面の隅に、ベランダ側を向いて立つ女性が映ったらしい。振り向いても誰もいない。私は会議を切り、今度は窓から離れた玄関側へ移った。そのとき廊下の向こう、台所と壁の狭い隙間を、裸足のかかとだけが静かに横切った。ベランダで見たものが、いつの間にか部屋の内側へ入っていた。
玄関を開けて共用廊下へ出ると、ちょうど隣の母親が帰宅したところだった。事情をぼかして「今日、誰かベランダに出ました?」と聞くと、彼女は荷物を抱えたまま黙った。そして私の肩越しに室内を見て、「返事、しました?」と聞いた。なぜそれを知っているのか尋ねても答えず、「うちは、聞こえても返さないようにしてます」とだけ言う。直後、私の部屋の奥から、今度は私自身の声で「どうぞ」と聞こえた。
二人とも動けなかった。開いた玄関の向こうで、薄茶色のカーディガンを着た女が台所から現れた。顔は普通の中年女性に見えたが、こちらを見ず、誰かの家を通路として使うように歩いてくる。床を踏む裸足の音だけが妙に湿っていた。女は玄関の手前で初めて私へ顔を向け、「通ります」と言った。私が口を閉じたまま後ずさると、女は進まず、代わりに隣人の口から、かすかな声で「どうぞ」と返事が漏れた。
私は咄嗟に隣人の腕を引き、二人で廊下へ走った。振り返ると女は玄関を出ず、敷居の内側に立っていた。隣人は青ざめ、自分では声を出した覚えがないと言った。その日は管理人に事情を伏せて室内を確認してもらい、私は友人宅へ泊まった。翌朝戻ると部屋に荒らされた跡はなく、乾いた床にも足跡はない。ただ、閉めたはずのベランダの窓だけが指一本ほど開き、室内の空気に雨上がりの土のような匂いが残っていた。
それから私は、家で「通ります」という声を聞いても返さない。隣人ともその話を避けるようになり、月曜の在宅勤務もやめた。しばらくして、反対側の空室に若い夫婦が越してきた。引っ越しの挨拶で夫が笑いながら妙なことを言った。「この建物、ベランダ伝いに近所の人が挨拶に来るんですね」。その背後で妻が荷解きをしていた。彼女は突然手を止め、誰もいない台所へ向かって、ごく自然に「どうぞ」と答えた。
※本作は創作怪談です。
