歌い終えた瞬間、全員が口を閉じたのに、まだ誰かが息を吸っていました。長く、湿った、喉の奥をこするような音です。指揮をしていた先生も手を下ろさず、二十人ほどが黙ったまま互いの顔を見ました。ところが音は誰かの席からではなく、輪になった私たちの中央から聞こえてくるようでした。
私は地域の公民館で活動する合唱サークルに通っています。仕事帰りに参加できる夕方の練習で、窓の外にはまだ薄い秋の明るさが残り、蛍光灯を全部つけなくても楽譜が読める程度でした。特別うまい集まりではありません。休憩になれば菓子を回し、近所の店や庭仕事の話で笑う、ごく普通の顔ぶれです。
その日は最初から、隣に立つ佐和子さんの息遣いが少し気になっていました。歌っている最中ではなく、彼女が息を吐き切ったあとに、もう一度、小さく吸う音がするのです。本人は平然と次の小節を歌っています。鼻が詰まっているのだろうと思いましたが、横目で見ると、その音がした瞬間だけ彼女の胸はまったく動いていませんでした。
休憩中、私は冗談めかして「今日、息苦しくない?」と尋ねました。佐和子さんは首を振り、それより私の声がおかしいと言いました。「さっきから、歌い出す前に誰かと一緒に吸ってるみたい」。その言葉の途中、向かいで水を飲んでいた男性が急にコップを置きました。彼にも、私たちのすぐ間で誰かが鼻から深く息を吸ったように聞こえたそうです。
先生は空調の音だと言い、練習を再開しました。けれど私は歌うのをやめ、口を閉じたまま周囲を見ました。すると皆が一斉に息継ぎをしたところで、佐和子さんの頬が内側から押されたようにふくらみました。彼女自身は気づかず歌っています。次の瞬間、そのふくらみが喉へ沈み、私は反射的に彼女の肩をつかんで歌を止めさせました。
佐和子さんが驚いて口を閉じると、部屋中の歌声が途切れました。静寂の中、私の口の内側に冷たい空気が入りました。私は吸っていません。唇を押さえたのに、顎が勝手に開きかけます。そのとき正面の女性が悲鳴を上げました。私の開いた口の奥から、もう一つの白い口が見えたというのです。歯ではなく、濡れた唇だけが喉の暗がりでゆっくり息を吸っていた、と。
私は洗面所へ走り、口をすすぎ、吐けるものは全部吐こうとしました。佐和子さんと先生もついてきましたが、鏡を見る勇気はなく、俯いたまま鼻で呼吸しました。しばらくすると胸の冷たさは消えました。その日の練習はそこで中止になりました。帰り際、先生は皆に、次回から発声前の深呼吸をしばらくやめよう、とだけ言いました。
翌週、私は欠席しました。ところが夕方、佐和子さんから短いメッセージが届きました。練習そのものも休みになったそうです。理由を聞く前に、添付された音声を再生してしまいました。無人の練習室を確認しに行った先生が録ったものらしく、椅子を動かす音の向こうで、誰かがゆっくり息を吸っています。そして最後に、私がいつも歌っていたパートの高さで、声になる直前の息だけが続いていました。
※本作は創作怪談です。
