マイクを切ったのに、防音ガラスの向こうで男性の口だけが動いていた。声は聞こえない。それなのに唇は、さっきまで読んでいた原稿の続きを滑らかに話しているように見えた。私は操作卓から立ち上がり、出演者の佐伯さんに手を振った。すると彼は怪訝そうにこちらを見て、口を閉じた。その直後、私の背後にある小さなモニタースピーカーから、誰のものとも分からない息継ぎが一度だけ聞こえた。
私は架空の町にある小さな地域ラジオ局で、収録と編集を担当している。昼は商店の人や学生が出入りし、夕方にはガラス越しに西日が差す、ごく普通の職場だ。金曜は翌週分の番組をまとめて録るため少し遅くなるが、スタッフはたいてい近くにいる。スタジオと操作室を隔てる厚いガラスは完全防音で、互いの声はマイクとヘッドホンを通さなければ届かない。その仕組みを、私は誰よりよく知っていた。
佐伯さんに「さっき最後に何か言いました?」と尋ねると、彼は首を横に振った。気になって録音データを再生したが、番組終了の挨拶のあとには無音しかない。見間違いだったのだと思い、次の収録を始めた。ところが女性ゲストが笑った瞬間、ガラスに向けていた彼女の横顔だけが妙に遅れて見えた。本人はもう原稿へ視線を落としているのに、ガラス越しに見える口元は、笑った形のまま何かを噛むように動いていた。
休憩に入り、私はスタジオへ入った。ガラスを内側から眺めても何もおかしくない。ところが操作室に戻ろうとしたとき、背後で女性ゲストの声がした。「そこ、まだ使うんですか」。振り返ると室内には私一人だった。扉の外にいた本人は同僚と紙コップのコーヒーを飲んでいる。声はもう一度、今度は私の耳のすぐ横で「まだ使うんですか」と囁いた。意味よりも、その声が息を吸わずに発音されたことが怖かった。
私は収録を打ち切り、全員を操作室側へ集めた。機材の不調だと説明して帰ってもらおうとしたが、佐伯さんが急にガラスを指さした。無人になったスタジオ中央で、誰かが椅子に座っているように空間が歪んでいた。輪郭は見えない。ただ、卓上マイクの正面だけ背景が水面のように揺れ、その揺れの中に人間の口らしい薄い裂け目が浮かんだ。私たちが黙ると、それも動きを止めた。誰かが咳払いすると、裂け目が嬉しそうに開いた。
「喋らないで」と私は小声で言ってしまった。その瞬間、向こうの口が同じ形を作った。スピーカーの電源は落としてあったのに、操作室の四方から私自身の声がした。「喋らないで」。佐伯さんが扉へ走ると、スタジオ側の裂け目も横へ滑り、ガラスぎりぎりまで近づいた。そこには口だけでなく、透明な頬と顎の輪郭まで生まれ始めていた。さらに隣の女性スタッフが喉を押さえた。彼女の閉じた唇の奥から、私の声で「開けて」と聞こえたからだ。
私たちは声を出さず、非常口から建物を出た。外はまだ夕暮れで、車の音も人の話し声も普通に聞こえた。それだけで救われた気がした。翌日、管理担当者がスタジオを確認したが、ガラスにも機材にも異常はなかったという。それでも私は、その部屋での収録を避けるようになった。佐伯さんも出演をやめた。ただ女性スタッフだけは「あの日から、自分の声が少し遠く感じる」と筆談で伝え、その後しばらく仕事を休んだ。
それから数週間後、自宅で夕食を作っていると、ラジオから以前収録した番組が流れた。佐伯さんの声も女性ゲストの笑い声も、編集した通りだった。安心しかけたところで、番組がCMへ切り替わる直前、聞き覚えのある私の声が小さく混じった。「ここなら、ガラスがない」。私は一言も発さずラジオを消した。すると台所の入口で、帰宅した家族が口を閉じたまま立っていた。その喉の奥から、私が今まさに飲み込んだ悲鳴だけが聞こえた。
※本作は創作怪談です。
