母が包丁を置き、私の顔を見た。
「その歌、どこで覚えたの」
夕食を作りながら私が口ずさんでいたのは、幼い頃、眠れない夜に母が歌ってくれたはずの子守歌だった。ところが退院したばかりの母は、聞いたこともないと言う。居間にいた妹まで台所へ来て、「私も覚えてる。お母さんが歌ってた」と言った。その瞬間、母の表情から笑みが消えた。
母が足を悪くしたため、この週末だけ私と妹が実家へ泊まり、家事を手伝うことになっていた。郊外の古い一戸建てだが、私たちが育った家を建て替えたもので、居間も台所も明るい。夕方には西日が磨りガラスを橙色に染め、母は椅子から料理へ口を出し、妹が文句を言う。久しぶりに三人で囲む食卓は、少し騒がしいくらい普通だった。
食後、妹が食器を洗いながら、さっきの歌の続きを鼻歌でつないだ。私の記憶とまったく同じ旋律だった。歌詞は思い出せない。ただ、不思議なことに二人とも「歌を聞いていた場所」だけは鮮明だった。建て替える前の家の寝室。雨戸を閉めた暗い部屋で、私と妹は布団に並び、母は襖の向こうで歌っている。そう話すと母は、「あなたたち、小さい頃は別々の部屋だったでしょう」と首をかしげた。
その夜、母を一階で休ませ、私たちは二階へ上がった。階段の途中で、妹が急に私の腕をつかんだ。階下から、あの旋律が聞こえていた。母かと思って戻ると、母は居間でテレビを見ている。歌はその背後、台所の壁のあたりから滲むように続いていた。母にも聞こえたらしい。顔色を変えた母が、歌ではなく低い声で、「昔も、壁の向こうから聞こえたことがある」と言った。
母によれば、旧宅を取り壊す前、私たちが留守の昼間に同じ鼻歌を何度か聞いたという。娘たちの遊び歌だと思い、気に留めなかったらしい。私は歌の記憶を確かめたくなり、妹と目を閉じて幼い夜を思い浮かべた。すると母の声だと思っていたものに、別の感触が重なった。襖の向こうからではない。枕のすぐ下、畳へ頬をつけた耳の側から、歌が上がってきていた記憶だった。
そのことを口にした途端、妹が「歌わないで」と叫んだ。私は声を出していなかった。それでも自分の喉に指を当てると、皮膚の内側が細かく震えていた。次いで、私の口とは別の声が胸の奥から旋律を押し上げた。台所からも同じ歌が重なり、母が耳を塞ぐ。妹だけが私を見て、「今、思い出した」と後ずさった。「お姉ちゃんの横に寝てたの、お母さんじゃない。知らない女の人が、床に耳をつけて歌ってた」
妹に肩を揺さぶられた瞬間、喉の震えは止まった。台所も静まり返った。私たちはその晩、二階へ上がらず、居間に三人で布団を敷いた。母は灯りを消さなかった。翌朝、奇妙なことに、私は子守歌の旋律をほとんど思い出せなくなっていた。妹も同じだった。ただ母だけは朝食の途中、無意識らしく指先で食卓をなぞりながら、昨夜まで知らないと言っていた旋律を正確に口ずさんでいた。
数日後、母から短い電話が来た。「変なこと聞くけど、あなた、小さい頃はどんな声だった?」私は意味が分からず笑いかけたが、母は続けた。最近、幼い私と妹のことを思い出そうとすると、顔より先にあの女の鼻歌が浮かぶという。電話の向こうで食器を置く音がしたあと、母は突然黙った。そして受話器から、小さな女の子の声で「お母さん、もう覚えたよ」と聞こえた。母には、その声が聞こえていなかった。
※本作は創作怪談です。
