食器洗浄機の扉を開けた瞬間、白い湯気の中で誰かが腰の後ろに手を回した。エプロンの紐を結ぶ、見慣れた仕草だった。私は反射的に「熱いですよ」と声をかけたが、返事はない。湯気が薄れると、そこには銀色のラックしかなかった。ただ、曇った仕切り窓には、人が両腕を後ろへ回した形だけが、乾いた跡としてくっきり残っていた。
私は市内の架空の小学校で給食調理を担当している。昼食が終われば、午後は鍋や食器を洗い、床を流し、翌日の仕込みを確認する。九月半ばでも洗浄室は暑く、ステンレスの壁には水滴が浮く。水曜は献立の都合で大鍋が少なく、片付けも比較的早い。児童の声が遠ざかったあとは、同僚と換気扇の音に負けない声で雑談する、ごく普通の職場だった。
その日、同僚の佐和さんが仕切り窓を布巾で拭きながら、「ここ、誰が触った?」と聞いた。見ると曇りの中に、細長い筋が左右へ伸びていた。濡れた袖でもこすったのだろうと私は答えた。朝から何人も出入りしているし、洗剤の拭き残しなら変な模様にもなる。けれど布巾を往復させても、その部分だけは濡れず、ガラスの向こう側に白い腕が貼りついているように見えた。
床を流し始めると、佐和さんが突然ホースを止めた。洗浄機の横から、布を絞るような音が聞こえたという。私たちが黙ると、換気扇の低い唸りの下で、きゅっ、きゅっと湿った音が移動した。機械の裏ではなく、私たちの間を通っているようだった。その直後、佐和さんのエプロンの腰紐が後ろへ強く引かれた。結び目はほどけず、濡れた紐だけが誰かの指に握られたようにねじれていた。
私は作業をやめ、佐和さんを先に廊下へ出した。機械の故障なら蒸気漏れも危険だと思い、電源を落として責任者を呼びに行こうとした。しかし仕切り扉まで来たところで、背後から紐を結ぶ衣擦れがした。振り返ると、停止した洗浄機の上にまだ湯気が漂い、その中央に白い胴体の輪郭が立っていた。頭らしい部分は天井へ崩れているのに、両腕だけが妙にはっきり腰の後ろへ回っていた。
「見ないで、出よう」と佐和さんの腕をつかんだ途端、その白い両腕がほどけた。次の瞬間、冷たい濡れ布巾を当てられたような感触が私の腰を一周した。エプロンが勝手に締まり、体が後ろへ引かれる。佐和さんが紐をほどこうとすると、湯気の人も同じ動きをした。ただし手の向きだけが逆だった。人なら曲がらない方向へ指を返しながら、私たちではなく、私の背後にもう一着のエプロンを着せるように腕を動かしていた。
佐和さんが非常扉を押し、私はエプロンを脱ぎ捨てて廊下へ転がり出た。責任者と戻ったときには室温も下がり、床には脱いだエプロンが平たく落ちていた。設備業者にも確認してもらったが、蒸気漏れにつながる故障は見つからなかった。その週から私たちは洗浄作業を必ず複数で行い、使用後のエプロンも洗浄室に残さなくなった。仕切り窓の乾いた人型だけは、洗剤で磨くと消えた。
翌週、給食室から離れた職員用の洗濯スペースで、乾燥済みのエプロンを畳んでいると、佐和さんが無言で一枚を差し出した。腰紐が、私たちの結び方とは逆向きに固く結ばれていた。ほどいて洗い直そうと手を伸ばすと、佐和さんは私の手首をつかんだ。布は完全に乾いている。それなのに結び目の内側からだけ、洗浄室と同じ生温かい湯気が細く立ち、その白さの中で小さな指のようなものが紐を引き直した。
※本作は創作怪談です。
