向かいの棟のベランダで、女の人がカーテンを干していました。洗濯物ではなく、部屋から外したらしい長いカーテンを、その人は両腕で抱え、物干し竿へ何度も巻きつけていたんです。風で大きく膨らむ布の隙間から顔が見えました。こちらを向いているのに、手だけは休まず動いていました。母に「あの人、何してるんだろう」と聞くと、母は窓を見ずにカーテンを閉めました。
これは昨年、母が住む古い団地で引っ越しの荷造りを手伝ったときの話です。建物は架空の名前にしますが、ごく普通の集合住宅でした。昼過ぎには西日がベランダまで入り、下の広場では子どもがボールを蹴っています。私は段ボールを組み、母は食器を新聞紙で包んでいました。向かいの棟とは植え込みを挟んでいて、窓を開けると柔軟剤や夕飯の匂いまで流れてくるような距離でした。
母が買い物へ出たあと、テープを切るため窓際へ戻ると、さっきのベランダには誰もいませんでした。ただ、カーテンだけが竿から垂れ、風もないのに内側から押されるように膨らんでいました。布の裾が手すりを越え、ゆっくりこちらへ向くようにねじれます。部屋の風が抜けているのだと思いました。それでも妙だったのは、布越しに人の頭ほどの丸い膨らみが浮かび、こちらを覗く高さで止まったことです。
目を離して荷造りへ戻ろうとした瞬間、すぐ後ろで布を強く払う音がしました。母の部屋のカーテンです。閉めてあったはずなのに、裾がベランダ側へ大きく吸い出され、ガラス戸の隙間へ細長く挟まっていました。引き抜くと、生地から湿った土のような匂いがします。さらに裾には、誰かが外側からつまんだような深い皺が残っていました。向かいを見ると、竿に巻かれていた布だけがなくなっていました。
私は気味が悪くなり、ガラス戸を施錠して母へ電話しました。ところが事情を話すと、母は珍しく強い声で「カーテンを触らないで。ベランダにも出ないで」と言いました。理由を聞いても、帰るまで待てと言うだけです。私は玄関近くで待つことにしました。その途中、閉め切った居間から、しゃっ、しゃっ、と布を竿へ滑らせるような音が聞こえ始めました。覗くと、カーテンの中央だけが部屋側へ引っ張られています。
次の瞬間、カーテンの向こうに指が浮きました。外からではありません。布と窓ガラスの狭い隙間に、白い両手がありました。手はカーテンをつかむと、まるで物干し竿へ掛けるように頭上へ持ち上げます。その下から、肩、濡れた髪、伏せた顔が布越しにせり上がってきました。私は玄関へ走りましたが、背中側で金属の竿が軋む音がします。振り返ると、その人は室内のカーテンに半身を包み、もうこちら側に立っていました。
ちょうど帰ってきた母が私を廊下へ引き出し、玄関を閉めました。母は管理会社などには説明せず、その日は近くに住む親戚宅へ移ろうと言いました。尋ねると、母も以前、向かいのベランダで同じ人を見たことがあるそうです。ただし母が見たとき、その人が干していたのは向かいの部屋のカーテンではなく、母の部屋と同じ生成り色の布だったといいます。それ以来、窓際で洗濯物を畳まなくなっていたそうです。
引っ越しは予定を早め、数日後には終わりました。最後にカーテンも処分し、母は別の町で暮らしています。この夏、新居を訪ねたとき、私はベランダで洗濯物を取り込んでいる母に呼ばれました。物干し竿には、見覚えのない木製の洗濯ばさみが噛みつくように留まっていました。母が黙って外そうとすると、開いた窓の内側で、新しく買ったカーテンがふわりと持ち上がりました。誰かの両手に、裾からすくわれたように。しばらくして、向こう側から布を竿へ滑らせる音がしました。
※本作は創作怪談です。
