乾燥室の透明な扉の向こうで、吊るされた作業着が一着だけ腕を上げた。風にあおられた動きではない。右袖がゆっくり曲がり、曇ったガラスを内側から拭うように横へ滑ったのだ。夜勤中の美咲は台車を止めた。乾燥機は停止しており、ファンの音もしない。それなのに布の肩には、誰かが中から息をしているような膨らみが残っていた。
美咲が働くのは、飲食店や工場から預かった制服を洗浄する郊外の業務用クリーニング工場だった。夕方から深夜までは、洗い上がった衣類を乾燥室から運び、仕分け台で畳むのが主な仕事だ。金曜は週末分の納品準備で忙しい。蛍光灯の白い光、洗剤の甘い匂い、ローラーの低い振動。人の出入りも多く、本来なら怪談めいた静けさとは無縁の職場だった。
先輩の西川を呼ぶと、作業着はもう普通に垂れ下がっていた。「熱が残ってたんじゃない?」と言われ、美咲もそう考えることにした。ところが仕分けを始めると、その服だけ妙に生温かい。乾いた布の温度ではなく、脱いだばかりの服に残る体温に似ていた。さらに襟へ手を入れた瞬間、内側から指先をそっと撫でられた気がした。反射的に落としたが、中には何もなかった。
その後、乾燥室の近くを通った西川が急に足を止めた。「今、中に誰か入った?」。美咲が振り返ると、半透明の扉越しに作業着が何着も揺れている。その間を、布を押し分けながら何かが移動していた。頭も足も見えない。ただ、人が通る場所だけ衣類の肩が順番に避けていく。やがて動きは扉の前で止まり、ガラスに内側から柔らかな布地がぴたりと押しつけられた。
二人は乾燥室を使わず、責任者に連絡して別工程へ衣類を回すことにした。美咲は問題の作業着を袋へ入れようとしたが、背中側が仕分け台へ張りついたように持ち上がらない。西川と二人で引いた瞬間、空だった袖が美咲の手首へ巻きついた。布とは思えない力だった。美咲は腕を抜き、台車ごと押し離した。その途端、乾燥室から濡れた裸足で床を踏むような音が近づいてきた。
逃げ込んだ休憩室には、別の作業員が二人いた。美咲が扉を閉めるより先に、西川が廊下を指さした。白い蛍光灯の下を、作業着がこちらへ歩いてくる。服の中に身体は見えないのに、肩と腰には確かな厚みがあり、袖口からは湯気のような湿った空気が漏れていた。さらに襟の空洞が西川の方へ向くと、中から彼自身の声で「それ、まだ乾いてない」と囁いた。西川は返事をしかけ、美咲が口を塞いだ。
責任者が到着した頃には、作業着は乾燥室の床へ落ちていた。機械を止め、その夜の作業は中断された。翌朝、衣類は専門業者へまとめて回され、乾燥室もしばらく閉鎖されたという。美咲は配置を変えてもらい、入口から離れた検品担当になった。西川はあの夜から、制服へ着替える前に必ず襟の内側を覗くようになった。理由を聞かれても、何も答えなくなった。
数週間後、美咲が昼の検品台で新品の制服を広げていると、西川が背後を通った。声をかけようとして、美咲は手を止めた。彼の制服の背中が、身体からわずかに浮いていたからだ。西川が右へ曲がったあとも、布だけが一瞬そこに残り、遅れて引かれるようについていった。美咲は追わなかった。その日の退勤時、西川は私服で帰った。それでも自動扉が閉じる直前、彼の肩の後ろでは空の袖だけがこちらへ手を振っていた。
※本作は創作怪談です。
