苗棚の下から、こちらと同じ手が伸びていた。私が腰をかがめると向こうも曲がり、手袋を外しかけると、黒い土にまみれた五本の指もゆっくり縮んだ。九月末、出荷前の鉢を並べ替えていた夕方のことだ。反射だと思える場所に鏡などない。棚の向こうをのぞこうと一歩寄った瞬間、その手は苗の根元をつかみ、音もなく奥へ引っ込んだ。葉だけがしばらく揺れていた。
私は郊外の小さな育苗農園で、秋物の苗を出荷用トレーへ移す仕事をしている。温室は腰ほどの高さの金属棚が何列も並び、昼間は白い遮光布を透かした光で意外なほど明るい。水やりのあとは湿った培養土と青い葉の匂いが満ちる。社員の野村さんと二人で根詰まりした鉢を選び、根鉢を軽くほぐして植え替えるのがその日の作業だった。棚下には空鉢と古い根の塊を入れるケースしか置かない。
手のことを話すと、野村さんは「猫でも入ったんじゃない」と笑った。確かに破れた寒冷紗から小動物が入ることはある。私は見間違いということにして作業へ戻ったが、しばらくして足首に冷たいものが触れた。灌水ホースだと思って蹴りよけると、靴の甲に湿った土の筋が残った。そこから棚の下まで、何かを引きずったような跡が続いている。なのに土の跡は途中で壁へ向かわず、棚の真下で途切れていた。
夕方、野村さんが別棟へ台車を取りに行くと、温室の奥で葉を擦る音が始まった。風ではない。苗の列が順番ではなく、あちこちで内側から持ち上がっている。しゃがんで隙間を見ると、棚の下を誰かが四つ這いで横切った。作業着らしい緑色が見え、野村さんだと思って声を掛けた。すると背後の入口から本人が「何?」と返した。同時に足元で、同じ声がずっと小さく「なに」と言った。息を吸う音だけが妙に近かった。
私は野村さんの腕をつかんで温室から出た。彼も声を聞いており、笑わなかった。入口を閉めようとしたとき、棚の端から昼間捨てた根鉢が転がってきた。白い根が土を包んだ塊だったが、根の間に私の灰色の作業手袋が食い込んでいる。片方は確かにポケットに入れたはずだった。野村さんが火ばさみで取ろうとすると、根が手袋の指へ沿うように締まった。私は触るなと言い、二人で事務所へ戻ることにした。
出口まであと数歩というところで、頭上の棚が激しく鳴った。下から何かが持ち上げている。苗鉢が傾く間から現れたのは、土と細い根を押し固めた人ほどの上半身だった。顔に当たる場所には目も口もなく、濡れた根が束になって垂れている。それでも両腕だけは人間の関節と同じ位置で曲がった。そいつは野村さんの足をつかむと、根鉢をほぐすとき私たちがしていた通り、靴を包むように指を広げた。私は灌水ホースを全開にして、その腕へ水を叩きつけた。
水を吸った土の腕は崩れ、野村さんを引きずって外へ出せた。私たちは温室を施錠せず、管理者を呼んだ。翌朝、数人で確認すると棚の下には泥と崩れた根しかなかったという。苗は別棟へ移され、古い培養土も処分された。野村さんの足首には傷はなかったが、靴下の内側まで細い根が入り込んでいた。それ以来、彼は根鉢に素手で触れなくなった。私も棚の下へ手を入れる作業だけは、柄の長い道具を使っている。
十月に入ってから、野村さんは農園を休んだ。奥さんから、朝になると庭で裸足のまましゃがんでいることがある、と管理者へ連絡が来たそうだ。数日後、彼は復帰した。いつもの口調で謝りながら苗を運んでいたので、私は少し安心した。けれど休憩中、彼が靴を脱いだまま温室へ入るのを見た。呼び止めると振り返って笑い、「根を傷めるから」と言った。その足裏から床へ落ちた土の中で、白い細根だけが、彼の進むほうへゆっくり向きを変えた。
※本作は創作怪談です。
