母が、誰も座っていない席の味噌汁をふうふうと冷ましていた。土曜の昼、私が実家の台所へ入ると、母は湯気の向こうへ顔を寄せ、「熱いの苦手だったでしょう」と優しく話しかけている。その席は壁際で、椅子すらない。私が誰に言ったのか尋ねると、母は急に黙り、鍋を見つめた。「誰だったかしら」。隣で新聞を読んでいた父は、何も聞こえなかったように紙面をめくった。
母は夏頃から人の名前を思い出すのに時間がかかるようになり、週末は私が様子を見に帰っていた。それでも料理の手順は確かで、土曜の昼には父の好きな焼き魚と味噌汁が並ぶ。父は母の物忘れを冗談で受け流し、食後には二人で庭の鉢植えを眺める。築年数の経った家だが、怖い場所ではない。昼の日差しがレースのカーテンを透かし、包丁の音とラジオの野球中継が響く、ごく普通の台所だった。
その日、母が席を立ったあと、誰もいない壁際から味噌汁をすする音がした。私は父を見たが、父は焼き魚の骨を外している。「母さん、椅子を片づけたのか」と父が唐突に言った。壁際には昔から椅子などなかったはずだ。私がそう答えると、父は納得せず、そこへ手を伸ばすような仕草をした。それから鼻をしかめ、「この匂い、懐かしいな」と呟いた。味噌汁とは別に、濡れた藁のような匂いが漂っていた。
夕方、母が古いアルバムを持ってきた。自分の若い頃を思い出したいと言う。ところが父は結婚式の写真を見て、隣に写る母を指し、「この人は誰だ」と尋ねた。母は笑いかけて、そのまま固まった。私が父の肩に触れた瞬間、台所で椀の転がる音がした。駆け込むと、壁際の床に昼の味噌汁の椀が伏せてある。その横だけ畳んだ座布団ほどの床板が湿り、誰かが膝をついたように二つ窪んでいた。
父を一人にできないと思い、私は二人を居間へ移して台所の戸を閉めた。母には近所の医療機関へ相談しようと話し、父にも今日は泊まると告げた。ところが父は私の顔まで確かめるように眺め、「君は母さんの知り合いか」と言った。母ではなく、私を忘れ始めていた。背後の戸の向こうでは、食器を重ねる乾いた音がする。母が青ざめて私の袖をつかみ、「あの人、また家族を片づけに来た」と囁いた。
その言葉と同時に戸が内側から開いた。台所は夕日の橙色で明るかった。壁際には、灰色の割烹着を着た小柄な女が正座していた。髪も頬も濡れているのに、床へ水は落ちない。女は空の椀を両手で抱え、父へ向けて息を吹きかける。すると父が私を見て、「すみません、どちらさまですか」と頭を下げた。私が父の腕を引くと、女は初めてこちらを向いた。顔には母の若い頃の目と、私自身の口元が混じっていた。
私は両親を玄関から外へ連れ出し、その晩は姉の家に泊まった。父は翌朝には私の名前を思い出したが、母との結婚式だけはどうしても思い出せなかった。母のほうは逆に頭が冴えたようで、灰色の女について尋ねても「知らない」ときっぱり答えた。ただ、実家から持ち出した食器を洗っていると、母は空の椀を一つ抱え込み、「これは使わせちゃ駄目」と離さない。理由を聞いても、唇を結ぶだけだった。
二週間後、父から荷物が届いた。家に戻る気はまだないらしく、写真や衣類を整理して送ってきたという。箱の底には、例の空の椀が新聞紙に包まれていた。母が手放さなかったはずなのに、と姉と顔を見合わせた。その晩、姉の幼い娘が椀を見つけ、食卓の端へそっと置いた。「これ、おばあちゃんの隣の人のだよ」。姉が誰のことか尋ねると、娘は困った顔で私を指した。「この人を忘れる前から、ずっといる人」
※本作は創作怪談です。
