プレス台に載せた紺色のコートから、手が出ていた。正確には、右袖の先から白い指が三本だけ覗いていた。美咲が反射的にアイロンを浮かせると、それはするりと袖の中へ引っ込んだ。ハンガーから外したばかりのコートは平らで、人が入れるはずもない。袖をつかむと、中には裏地の滑らかな感触しかなかった。なのに手のひらには、誰かと握手したあとのような、ぬるい温度が残った。
美咲が働くのは、住宅街にある小さなクリーニング店だった。月曜は週末に預かった衣類を仕上げる日で、昼過ぎまで店の奥では蒸気と機械の低い音が途切れない。受付に店長、仕上げ場に美咲という普段通りの配置で、窓からは九月の明るい日差しが入っていた。衣類は洗浄を終えると、プレスして形を整え、透明なカバーを掛ける。いつもなら柔軟剤と熱い布の匂いしかしない、ごく見慣れた仕事場だった。
さっきのコートをもう一度広げても、破れも膨らみもなかった。美咲は、裏地の折れ方が指に見えただけだろうと考え、そのまま肩や襟を整えた。だがハンガーへ戻そうとしたとき、袖の内側から、布を爪でゆっくり掻くような感触が指へ伝わった。驚いて手を放すと、コートは振り子のように揺れた。店長に見せようか迷ったものの、その瞬間には何も起きず、蒸気の音だけが妙に大きく聞こえた。
しばらくして店長が受付から「これ、まだ仕上げてないよね」と声をかけた。見ると、あのコートだけが受付脇の受け渡し用フックに掛かっている。美咲は仕上げ場から運んだ覚えがなかった。店長も触っていないという。透明なカバー越しに見るコートは普通だったが、右袖だけが、人の腕を通したように肘の位置で曲がっていた。そして二人が見ている前で、その袖がゆっくり持ち上がり、店の奥を指すように伸びた。
美咲は客が来る前に片づけようと、店長と二人でコートを大きな衣類ケースへ移した。店長が蓋を閉じ、美咲は作業台へ戻った。ところが首筋に、冷たい布が触れた。振り向くと誰もいない。代わりに背中側から肩へ重みがかかり、両腕に袖を通されるような感触が走った。美咲は作業着の前をつかんで逃げ、受付まで駆けた。その途中、店長が美咲の背後を見て、声も出さず壁際へ退いた。
店長が見ていたのは、ケースの中にあるはずのコートだった。紺色のそれが、美咲の背中にぴたりと重なって立っていた。中には人の胴体らしい膨らみがあり、襟の上だけが空白だった。袖から伸びた青白い両手は美咲の肩を包み、着せるのではなく、彼女をコートの内側へ引き込もうとしていた。美咲が腕を振ると、耳元の布地から低い息が漏れた。「まだ温かい」。店長がカバーごとコートをつかんだ瞬間、重みだけが床へ崩れ落ちた。
二人はそのコートに触れず、事情をぼかして本部管理の保管袋へ隔離した。その日の営業中、美咲は受付だけを担当した。肩には赤い痕も傷もなかったが、作業着を脱ぐたび、背中に湿った布が張りついているような感覚がした。夕方、コートは集荷担当へ引き渡された。店長は「今日はもう仕上げ場に入らなくていい」と言った。閉店前、空になったはずの衣類ケースを動かすと、底だけが人肌のように生温かかった。
数日後、美咲は別の客の白いシャツを畳んでいた。あれ以来、紺色の衣類を見ると無意識に袖口を確かめる癖がついたが、何も起きていなかった。その日もシャツを袋へ入れ、受付の客へ渡そうとした。すると客が受け取らず、美咲の肩越しを見て、「そちらの方が先ですよね」と小声で言った。店長が青ざめて振り返る。美咲には誰も見えなかった。ただ、着ていた作業着の両袖が、内側から腕を通されたようにゆっくり持ち上がった。
※本作は創作怪談です。
