アイロン台に置いた紺色の上着へ、美紀が手を伸ばした瞬間だった。右袖だけが、するりと持ち上がった。ハンガーにも掛けていない。袖口は台の端を越え、誰かが内側から腕を通すようにゆっくり伸びていく。美紀が手を引くと、布は力を失って落ちた。スチームの白い湯気だけが、その袖の上を何事もなかったように流れていった。
美紀は住宅街にある小さなクリーニング店で、午後から閉店まで仕上げを担当している。月曜は週末に預かった衣類がまとまって戻り、店内には洗剤と温められた布の匂いが混じる。通りに面した大きな窓からは夕方の薄い日差しが入り、受付では店長が常連客と世間話をしていた。プレス機の作動音も、衣類を掛け替えるハンガーの音も、いつもと変わらなかった。
紺色の上着は、ごく普通の男性用だった。美紀は袖の中に厚紙でも残っているのだろうと思い、裏返して確かめた。何もない。ただ、右の袖口へ指を入れたとき、奥から生ぬるい空気が手首を撫でた。乾燥機から出したばかりだから、と考えれば説明はつく。それでも奇妙だった。布地は冷えているのに、袖の内側だけが、誰かが脱いだ直後の服のように温かかった。
仕上げを終え、上着をラックへ移した直後、隣で包装作業をしていた店長が「あれ、誰か試着してる?」と受付の奥を覗いた。透明なカバーの中で、紺色の上着が肩から膨らんでいた。ハンガーに掛かったまま、胸元が人の呼吸のように浅く動いている。美紀が近づくと動きは止まった。その代わり、透明カバーの内側に、人の指で握ったようなくぼみが肩口からゆっくり腰へ滑っていった。
美紀は上着を客へ渡してはいけないと思い、店長に事情を話した。二人でカバーを外し、バックヤードの空いたラックへ隔離する。店長が布を広げても、破れも異物もない。「今日はここに置こう」と言って扉を閉めた、そのときだった。美紀の制服の右袖が急に重くなった。誰かの腕が、自分の腕と同じ袖へ後ろから差し込まれたような感触だった。肘が、自分の意思とは逆にわずかに曲がった。
美紀は反射的に制服を脱いだ。床へ落ちるはずのシャツは落ちなかった。空の制服が肩の高さで一瞬止まり、見えない身体に着せられた形で両袖を広げたのである。バックヤードでは同時に、隔離した紺色の上着がラックから滑り落ちた。次の瞬間、制服の左袖が店長の肩へ伸びた。店長が叫んで身を引き、美紀はハンガー棒で制服を床へ叩き落とした。中から、長く息を吐くような音がした。
二人は紺色の上着と制服を別々の袋へ入れ、その晩は仕上げ作業を中止した。店長は持ち主へ連絡し、確認が済むまで上着を店内で保管することにした。美紀は私服のカーディガンで帰ったが、電車では袖のある服を着ていること自体が落ち着かなかった。翌日、店長から「袋はそのままだよ」と連絡が来た。制服も床に置かれたままで、店内ではそれ以上のことは起きなかったという。
数日後、美紀は新しい制服を受け取った。半袖だったので、少し安心した。帰宅後、洗濯した服をベランダから取り込み、いつものようにクローゼットへ掛けていたとき、奥のカーディガンが目に入った。あの日、店から着て帰った服だった。右袖だけが棚の裏へ入り込んでいる。引き出そうと掴んだ瞬間、袖の奥から誰かの指がこちらへ進んでくる形に、柔らかな布が一本ずつ盛り上がった。美紀はまだ、その袖口に触れられずにいる。
※本作は創作怪談です。
