「まだ喋らないで」——本番前、ヘッドホンの中で誰かがそう囁いた。放送席には私しかいない。ミキサーを見ると、目の前のマイクだけ入力ランプが揺れている。息を止めても波形は消えず、黒いスポンジの奥から、細く空気を吸い込む音がした。電源を切ろうと手を伸ばした瞬間、スポンジがほんの少し内側へへこんだ。誰かが向こう側から、口を当てたみたいに。
私は地域向けの小さなラジオ局で、朝番組の進行と機材操作を担当している。窓の外が白み始める頃には、別室のスタッフがニュース原稿を揃え、給湯室からコーヒーの匂いが漂う。スタジオの壁には灰色の吸音材、机には原稿とマグカップ。防音扉を閉めれば静かだが、それはいつもの静けさだった。マイクも前日の番組で使ったもので、壊れている様子などなかった。
囁きは接触不良だと思うことにした。本番では予備マイクへ替え、問題の一本を机の端へ退けた。ところが曲を流している最中、向かいに座ったスタッフが突然、自分の喉を押さえた。「今、耳元で自分の声がした」と言う。内容を尋ねると、今朝まだ口にしていない挨拶だったらしい。その直後、使っていないマイクのスポンジから、湿った呼気のような生温かさが私の手首に触れた。
放送後、私たちはマイクをケーブルから外し、機材庫の棚へ置いた。これで終わると思ったのに、昼前、編集室にいたスタッフが無言で私を呼んだ。彼のパソコンから朝の番組を再生すると、私の声の下に別の発声が重なっている。言葉ではない。私が息継ぎするたび、半拍遅れて喉を鳴らす音だった。スタッフが再生を止めると、その続きを今度は天井のスピーカーではなく、彼自身の口から小さく聞いた。
彼は慌てて口を塞いだ。自分では声を出していないという。私は局長に事情を話し、午後の収録を別室へ移した。問題のマイクも袋へ入れて倉庫から遠ざけようとしたが、持ち上げた途端、袋の中でスポンジが柔らかく脈打った。反射的に床へ落とすと、隣のスタッフが「あ」と声を漏らした。同時にマイクからも同じ「あ」が返った。ただし声色は彼ではなく、朝から何度も喋っていた私のものだった。
私たちはケーブルも電源もないマイクを透明な保管箱に入れた。その瞬間、隣にいたスタッフの喉が大きく上下し、口が勝手に開いた。そこから流れたのは私の番組冒頭の挨拶、彼自身の笑い声、局長の咳払いが混ざった声だった。保管箱の中ではスポンジが呼吸するように縮み、そのたび彼の声が細くなっていく。私は箱を毛布で包んで押さえた。すると今度は、私の喉の奥を冷たい指で撫でられるような感触が走った。
局長はその日の放送を早めに切り上げ、問題の機材を使用禁止にした。スタッフの声は夕方には戻ったが、しばらく囁く程度しか出なかった。私はマイクに触れた服まで着替え、翌日は別のスタジオから番組を出した。保管箱は誰も開けず、廃棄方法を決めるまで施錠した部屋へ移された。それから放送に奇妙な音は混ざらなくなった。ただ、私は話し終えるたび、喉の奥に誰かの息が残る感覚だけを消せずにいた。
数週間後、新人スタッフが原稿読みの練習をしていた。あの機材には触れていない人だ。廊下ですれ違った私を見て、彼は「その言い方、先輩に教わったんです」と笑った。聞き返すと、誰もいない編集室で練習していると、壁の吸音材の奥から私の声が発音を直してくれるという。私は返事をしなかった。スタジオへ戻ると、机のマイクは新品だった。それでもスポンジへ顔を近づける前に、向こうから温かな息が唇へ触れた。
※本作は創作怪談です。
