長椅子の座面が、内側からゆっくり持ち上がった。誰かが下へ潜って膝を立てたように、灰色の布が二か所、丸く盛り上がっている。修理台の前にいた佐伯が手を止めると、その膨らみは布越しに位置を変え、今度は座る人間の太腿をなぞるような形になった。裏側は金属板で塞がれ、人が入れる隙間などない。それでも布には、押し上げる力が残っていた。
佐伯は郊外の小さな内装工房で、送迎車や業務車両のシートを張り替えている。その金曜も、午後から古い車両の最後列に使われていた三人掛けの長椅子を直していた。破れた表皮を剥がし、傷んだウレタンを交換するだけの仕事だった。開け放したシャッターから九月の明るい風が入り、ラジオとエアタッカーの音が交互に響く。普段なら、日が傾く前に終わる作業だった。
最初に妙だと思ったのは、古いウレタンを外したときだった。中央部分だけが妙に温かく、手のひらを離したあとも、人肌に触れた感覚が指先に残った。屋外から運ばれた直後だから熱がこもったのだろう、と佐伯は考えた。ところが新品のクッション材を置くと、その表面が一瞬だけ沈んだ。腰掛けられたような窪みだったが、振り向いた同僚の森は「風じゃない?」と笑った。
夕方、森が部品を取りに出ると、工房からラジオの音だけが消えた。電源は点いたままだった。代わりに背後から、布と服が擦れ合う音がした。佐伯が長椅子を見ると、右端の座面が深く沈み、続いて中央、左端へと圧力が滑っていった。人が横へ身体をずらしているようだった。しかも最後に背もたれが前へたわみ、その裏側から五本の細い隆起が現れた。指で、こちら側を探っていた。
佐伯は電動工具を置き、長椅子を修理台から降ろそうとした。触れた瞬間、座面が下から強く跳ね、手首を弾かれた。森へ電話をかけながらシャッター側まで退くと、今度は誰もいない長椅子の布がゆっくり沈み始めた。腰、背中、肩。見えない人物が座る形が完成する。そして、その人物が立ち上がったかのように窪みが戻ると、作業用の丸椅子のクッションが佐伯のすぐ隣で深く沈んだ。
戻った森が工房へ入った途端、「佐伯さん、後ろ」と叫んだ。佐伯の背に触れるほど近い位置で、作業着の布が何もない空間へ押し込まれていた。肩甲骨から腰へ、誰かが背後から身体を重ねるように圧力が広がる。息を吸おうとしても胸が開かない。森が佐伯の腕を引くと、作業着の背中だけが後方へ引っ張られ、布に指の形が浮いた。二人が外へ転がり出た直後、工房の長椅子は誰にも触れられず大きく軋んだ。
二人はシャッターを閉めず、工房の外から責任者へ連絡した。その夜、長椅子は作業を中断したまま別区画へ隔離され、翌週には依頼元へ未修理で返却された。佐伯の背中には傷ひとつなかったが、数日間、柔らかな椅子へ腰掛けると誰かの膝に座ったような弾力を感じたという。工房では丸椅子も廃棄し、休憩用のソファまで木製ベンチへ替えた。森も、それについて冗談を言わなくなった。
ひと月ほどして、佐伯は自分の車を運転して帰宅した。信号待ちで助手席へ置いた鞄を取ろうとすると、背後でシートベルトが擦れる音がした。後部座席には何も載せていない。振り返っても、布張りの座面は平らだった。前を向いたところで、運転席のクッションが下から柔らかく持ち上がった。太腿の裏へ、二つの膝の形がぴたりと当たる。佐伯は車を降りた。そのあと無人の運転席だけが、誰かを抱えるように深く沈んでいった。
※本作は創作怪談です。
