九月二日、水曜日の午後六時四十二分、職員玄関の打刻機が、誰も触れていないのに硬い音を立てた。金属のレバーが沈み、古い機械の口から一枚のカードがゆっくり押し出される。事務室から施錠確認に来た佐伯は、その場で足を止めた。氏名欄は空白なのに、赤い印字だけがあった。入、十八時四十二分。端には白い粉のついた指跡が三本残っていた。
佐伯が勤める夕凪工業専門校は、社会人向けの夜間講座もある小さな学校だった。それでも水曜の授業は早く、午後六時には生徒が帰り、残るのは事務職員と清掃員だけになる。普段の職員玄関には、換気扇の音と靴箱の扉が閉まる音が響く程度だ。壁のカードラックには教職員三十六人分が番号順に並び、退勤時刻を記録する旧式の打刻機も、翌週には交換される予定だった。
佐伯は予備カードが紛れたのだろうと思い、空欄の一枚を事務室の書類棚へ戻した。白い粉も、製図室で使うチョークか石膏に見えた。ところが十分後、玄関を通ると、そのカードはラックの端に差し込まれていた。三十六番の隣、壁との狭い隙間に、誰かが透明のポケットを貼り足している。いたずらにしては妙に丁寧だったが、生徒の置き土産だと考え、ポケットごと外そうとした。
その瞬間、打刻機がもう一度鳴った。カードには「外」と十九時十二分が加わり、同時に校内放送の始業チャイムが途中まで流れて途切れた。廊下の在室表示を見ると、天井修理で一週間閉鎖している二〇四教室だけが橙色に点灯している。玄関は冷房が効いていたのに、カードは人肌ほど温かい。白い粉からは、濡れた石膏を乾かすときの、埃っぽい匂いがした。
佐伯は設備の誤作動として記録するため、カードと表示盤を携帯電話で撮影した。それからマスターキーを持ち、二階へ向かった。二〇四教室の扉には工事業者が貼った封印紙が残り、破れた様子はない。細い窓から中をのぞくと、通常十八脚の製図椅子が十九脚あった。余分な一脚だけが教卓を向かず、廊下側の窓へ正面を向けている。座面には、カードと同じ白い指跡が三本ついていた。
午後八時十分、佐伯が事務室へ戻ると、玄関から連続した打刻音が聞こえた。一回、二回と数えるうちに十八回続き、カードラックの三十六枚が一斉に数ミリ持ち上がった。天井のスピーカーから、ひどく平坦な声が流れた。「三十七番、まだ教室です」。手に持っていたはずの空欄カードは消えていた。監視画面の二〇四教室には十九脚目の椅子が映り、その座面で白い紙が揺れていた。
佐伯は警備担当へ連絡しながら封印紙を切り、二〇四教室を開けた。室内にあったのは十八脚だけで、余分な椅子も白い粉も消えていた。空欄カードは教卓の中央に置かれ、「退、二十時十六分」と印字されていた。だが腕時計も廊下の時計も、まだ二十時十一分だった。翌朝、表示盤と打刻機は故障扱いで撤去され、壁に貼り足されたポケットも、粘着跡を残さずなくなっていた。
一週間後の水曜、佐伯は新しい電子端末の前で、撮影した写真を整理していた。二〇四教室の窓越しに撮った一枚には、確かに十九脚目が写っている。拡大すると、座面のカードには前回見えなかった日付があった。九月九日、入、十八時四十二分。その時刻になった瞬間、新端末の脇にある来校者用プリンターが動いた。吐き出された一枚のラベルには、「補講 二〇四」「受付番号 三十七」と並んでいた。
※本作は創作怪談です。
