作業台に広げた白い打掛の袖で、刺繍の葦が揺れていた。糸がほどけたのではない。銀糸で縫われた細い葉が、風を受けた草のように一斉に伏せ、ゆっくり起き上がったのだ。空調を止めても、隣にいた先輩のエプロンは動かない。袖口へ顔を寄せた瞬間、乾いている布から、雨上がりの川岸のような匂いがした。私は思わず手を引っ込めた。
私は式典や撮影で使う貸衣装を手入れする会社で働いている。返却された和装の汚れを確認し、必要なら専門部署へ回し、問題がなければ畳んで保管する仕事だ。その打掛も火曜の午後、ほかの衣装と同じように透明なケースで作業室へ届いた。室内は白い蛍光灯が明るく、蒸気アイロンの音と同僚の雑談が途切れない。怖がるような場所ではなかった。
打掛には鶴や花ではなく、水辺の葦だけが裾から袖へ細く刺繍されていた。珍しい柄だとは思ったが、商品にはさまざまな意匠がある。検品を続けると、左袖の内側だけが妙に冷たかった。濡れてはいないのに、指先を入れると水へ触れる直前のような冷気が皮膚をなぞる。先輩は「保管ケースが冷えてたんじゃない?」と言ったので、私もそう考えることにした。
夕方、別の衣装を畳んでいた先輩が急に手を止めた。「水の音しない?」。機械を止めると、作業室の奥から、浅い水を誰かが歩くような音がした。ちゃぷ、という音のたび、ハンガーに移した打掛の裾がわずかに持ち上がる。床は乾いている。それなのに刺繍された葦の先だけが次々と同じ方向へ倒れ、その向きが、私たちのいる作業台へ近づくように変わっていった。
私は打掛をケースへ戻して別室へ移そうとした。布そのものに異常があるなら、少なくとも人の多い作業室から離したかった。先輩に反対側を持ってもらい、袖を折り込もうとしたとき、中から冷たい指が私の手首を握った。布越しではなかった。濡れた皮膚が直接触れた感触だった。声を上げて腕を抜くと、手首には水滴ではなく、細い緑色の糸が一本だけ絡みついていた。
先輩が打掛を床へ落とした。すると左右の袖が内側から持ち上がり、人が腕を通して立ち上がろうとするように膨らんだ。襟の上には誰もいない。それでも袖の奥から白い手が現れ、作業台の縁をつかんだ。指の間には黒っぽい泥が詰まり、手首より先は刺繍の葦へ溶け込むように消えている。私たちが出口へ走ると、背後で大量の濡れた草を引きずる音が追ってきた。
廊下へ飛び出したところで音は止まり、別部署の人たちが駆けつけた。数人で戻ると、打掛は床に平らに落ちていた。手も泥もなく、床に水気さえない。ただ、先輩は私の手首を見て黙った。そこには傷ではなく、葦の葉に似た薄い緑色の筋が皮膚の下へ伸びていた。その日は打掛へ触れず、ケースごと隔離することになり、私は早退した。
数日で手首の筋は消えた。職場では、あの打掛を今後どう扱うか上の人が決めるまで保管すると聞いている。ところが昨夜、洗濯した仕事用エプロンをベランダから取り込んだとき、ポケットの内側に銀色の糸が絡んでいた。引くと抜けず、布の裏から細い葉の刺繍が浮かび上がった。今朝見ると、その葉はポケットの縁まで伸びている。触れていないのに、先だけが窓のない部屋で静かに伏せた。
※本作は創作怪談です。
